禍転じて福となり、住友信託銀行へ


 

−卒業後は?

当時、数学科を卒業すると大学院に進学して数学研究者を目指す以外には、3つの選択肢がありました。
一つは高校の数学教員になることで、多くの人が出身の府県に帰ってこの道に進みました。
あとは民間企業への就職ですが、
当時日進月歩で発展していたコンピュータ部門の開発要員が多かったですね。
もう一つは、数は少なかったのですが、数学科卒業者の伝統的な就職先になっていたアクチュアリー
(保険会社や信託銀行などに所属し、生命保険や企業年金の保険料や負債の額の算定をする仕事)という専門職になる道でした。


−で、山口青年はアクチュアリーになろうと?

そうですね。
アクチュアリーという専門職になるには、日本アクチュアリー会が実施する資格試験に合格することが必要です。
最近では「理系の司法試験」などと言われるほど、合格率が厳しくなっています。


私は天邪鬼なので、人があまり行かない方に行きたくなります。
それで、当時あまり仕事の内容も分からないまま、アクチュアリーを目指すことにし、
しかも大学の先輩が少ない会社を選びました。
それが住友信託銀行に入った理由です。


漠然と実践的に数学が生かせそうな場として、経済活動に直決する金融機関という世界に入ってみたいという気持ちがあったように思います。

−アクチュアリーという仕事はいかがでした?

27歳のときに日本アクチュアリー会の資格試験に合格し、正会員の資格を得ました。
そうすると、会社から資格手当が毎月1万円つくことになり、
当時としては経済的にも大いに助かりました。


選択を誤ったと思っていた数学科にたまたま在籍していたことで、このアクチュアリーという道に入れる
ことになり、これが生涯の仕事となる「年金」に繋がった訳ですから、
今振り返ってみても結果としてありがたかったと思っています。
「塞翁が馬」的に言うと禍を福に転化できたことになるかも知れません。


しかし、仕事をしていく上で徐々にこのアクチュアリーという仕事にも限界が
見えてくるようになりました。

−限界が見えた?

そうです。アクチュアリーは専門家として大変敬意は払われるのですが、
会社の役職ではせいぜい課長か次長クラス止まりで、なかなか部長クラスには
なれないということが分かってきたのです。
「塞翁が馬」的に言うと最初は専門家の道として喜んでいた「福」は
実は長期的には必ずしもハッピーではない、一種の限界があることが見えてきた
ということになります。


 

    当時住友信託銀行本店の入っていた住友ビル

同じ11期生の和田佳子さんも、この住友ビルで勤めておられました。
ある日食堂でばったり。
それが縁で、お二人は23歳の時に結婚されました。


 
 年金部門から企画部門へ
 

 
−アクチュアリーからの飛躍ですか?

大体、公務員でもそうなのですが、同じように入省しても技術職の人は課長止まりで、
行政職の人は局長や次官などさらに上の階層に昇格していくというパターンがありますが、
銀行でも似たようなものでした。
銀行では様々な分野の仕事がこなせるゼネラリストが優位な立場に立つことが多く、
専門職はその分野に限定して仕事をするためにどうしても視野が狭くなり、
昇進の限界みたいなものが何となくあることが分かってきて、これは何とかしないと浮かばれないなと思うようになったのです。


そこで所属していた年金部門の中でアクチュアリーの仕事から、転進を図るべく努力しました。
まず、部内の企画セクションへの異動を希望して、10年続けたアクチュアリーの仕事から足を洗い、
新しい分野へのチャレンジの一歩を踏み出しました。

後になって、私は日本アクチュアリー会の理事や日本年金数理人会の理事長に就任するのですが、
実際にアクチュアリーという仕事を経験したのは、実はこの10年間だけの短い期間だけだったのです。
この頃は30歳過ぎでまだ若くて、新しいことにどんどんチャレンジしたいという強い気持ちがありました。
アクチュアリーという専門家の立場はすごく居心地のいいものでしたが、変化を求める気持ちの方が強くて、
それが次のステップに繋がっていったように思います。


そして、年金部門の企画セクションから、今度は全社的な企画が出来る部署への異動を希望して、
37
歳の時に証券事業部門の企画課長に発令されて、古巣の年金部門から離れました。

 
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