モラトリアムの3年間


−高校時代にお医者さまになろうと思われたのですか?

いやー、若気の至りなんやけど親に反発して、医者になろうとは思わなかったですね。
音楽をやろうと思ったのです。
高校1年くらいからJazzが好きになりまして、
悪い先輩がいて、梅田辺りのJazz喫茶に連れて行ってもらいました。
Jazz喫茶に入り浸って、
ついにはそこでレコード係をして、
レコードコンサートなんかもやるようになりました。

−梅田のJazz喫茶ってどこですか?

バンビーというところです。

−ウワァー、バンビーですか?
実は私も大学時代にはバンビーに入り浸っていました。(笑)



「バンビー」という懐かしい名前に私たちは盛り上がり、一気に青春時代に逆戻りしました。
同行の小松さんはバンビーで1年半くらいアルバイトしていたそうです。

私は短大の写真部に所属し、休日にはバンビーで半日くらい他大学の男の子たちと議論していました。
頭デッカチで、現実も社会の事もよく分かっていなかったけど、
でも、一生懸命考え、語り、共感した時代でした。
あの、訳の分からない熱に浮かれた時代を過ごせて良かったと思っています。(児玉)




−この頃、レコード係をされていたということは、大学に行く前ですか?

浪人中です。
めちゃめちゃフラフラしてました。
目標を定めていないモラトリアム(猶予)の時代でした。

−不安はなかったですか?

周りはサラリーマンやし、大学生やし。
あの頃大学生も色々いました。
哲学科の人とか、議論してるのを聴いてるだけで結構面白かったし。
ぼんやりとJazzの評論家にでもなるつもりだったのかもしれません。
しかし、3年も浪人していると、何となくこのままではイカンなという気がしてきました。

−その3年間は今の人生にとってどうでしたか?

当時は結構背伸びしてたのかもしれません。
決して無駄だとは思いたくないですがね。
あの頃人間としての内面的なことも聴いたり、話し合ったり、見つめたりして自分のものにした事が、患者さんと接する時に役に立ってるかもしれません。

−そして医療の道に進まれました

浪人も3年やって、理学部に行っといた方がいいかな、と思い始めたときに、
「甲南に医学進学課程がある」という情報を得たんですね。


これは僕らの時代までですが、当時の大阪医大はは2年間の一般教養(理科系)の単位を他大学でとって、その後専門課程から入るシステムだったのです。
それで2年間甲南大学理学部医進課程で学び、その後大阪医科大学に進学しました。



 

当時のバンビー難波店


渡辺先生はここでレコードコンサートを
開いたそうです。
「Sunday Jazz Disc コンサート」






当時のバンビーのマッチ

Jazz喫茶のマッチはデザインも凝っている
ものが多くマッチを収集する人も多かった

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