高校闘争の時代
(背景は当時の映画「いちご白書」より)


 1968年〜1972年、日本のみならず世界中で、学生たちは政治について考え、既成の価値観を疑い、
自らの行動を自身に問いかけ始めた。
 この大きなうねりは、川高生も例外ではなかったようだ。


「創立30周年記念誌」から、その頃の一部を抜粋してみた。

 68年度の12期生卒業式席上で、「2つの答辞問題」がおこった。
「答辞が学校側の検閲を受けるということ、答辞を読む者が学校側のの指定制である」ことに問題を感じ、
3年生は答辞委員会をつくり、H・R討議を経て、"自主答辞"をつくりあげた。
こうして、卒業式当日、2つの答辞が読まれるに至った。

 69年には、"東淀川高校闘争"が起こる。

 大揺れに揺れた1年間だったが、多くのものを犠牲にしながらも、学校の改革が緒についた。
能力別クラス編成、コース制、受験のための講習が廃止された。また、日の丸の連日掲揚も中止になった。

 70年に入っても、前年度の混乱の余波は続いたが、その中から陣痛の苦しみを経て、
新しいものが産み出されつつあった。


 この大揺れに揺れた時期に在籍されていた、古賀滋さん(第16期生)に
当時の思い出を綴っていただいた。



私は十三中学から昭和45年に入学しました。


厳格だった父親が
「今、東淀川は火が燃えさかってるらしい。

しかしおとなしい滋なら
巻き込まれることはよもやないだろう。

受験してみよ」
と太鼓判を押してくれました。

十中の同級生で一緒に入学できた人はほとんどいなくて
私だけがあっさり入ったのです。

木川にあった家から歩いて30分で通えるし、
北野ほど窮屈そうでもないのが志望動機(!)でした。

まず放送部に入部
何が良かったかというと放送部は毎日、昼休みの放送をします。

ディレクターとアナウンサーが必ずペアなのですから。
そして我が一年は完全に男女同数。
放送部に通っていればガールフレンドには事欠かない、バラの日々!
そこへ二つの事件が起こりました。


庄野真代なる同学年の女子が来て
「私バンドやってるんです。演奏するので放送してもらえませんか?」
皆で相談しました。

「庄野?知らんなあ。 番組は我々で作ってるし、断ってしまえ」
と言うことになりました。

その後卒業してから、
飛んでイスタンブール、乾杯モンテカルロ
で有名になってしまい、見通しの無さにちょっと後悔しました。

その直後、
放送部室に今度は上級生のかっこいい女性が来て

「問題がおこったんや!マイク貸して。」
その剣幕についマイクを差し出し、ボリュームも調整してあげたお馬鹿な私。
鳴り響いた「全校生の皆さん!××教室に結集してください」というアジ演説に聞き惚れていた私ですが
その1時間後に平井放送部顧問と渡谷生活指導主任(故人)の
「なんちゅうことをしてくれた!」という怒声が私の頭上に鳴り響きました。

後、私たちの共通の思い出はなんと言っても万博
何時間並んでも疲れませんでした。
40年近く経つとさすがに寄る年波が・・・

もう一つだけ我が校が自慢できるのは
徒歩3分で新幹線に乗れること。

放送部とダブル入部したのが社会科研究部。
勝手に社会主義研究部に変えてまたまた大目玉。

懲りずに時代を疾走した私は、
入場券で東京行きに飛び乗り集会・デモ参加
天下の東大や明治大学にタダで泊まって数日後に涼しい顔で登校。
(時効なので当時の国鉄さん許してください)

こんな破天荒な高校生生活をエンジョイできたのも優しい恩師たちのおかげです。

その頃、連日私たちを説教し続けた化学の山田先生に、三年前の同窓会で再開し、
そのころは済みませんでした、と謝罪しました。


「今は子どもの中学のPTA会長をしてまして
荒れる子どもたちに、

先生やお巡りさんの言うことは聞くねんで。
留置場はつらいぞ、
としんみり
しかし変な説得力で説教する立場です」

と報告したら満面の笑顔で喜んでくださいました。

とにかく川高の3年間は私のその後40年間を大きく進路づけてしまいました。
恩師よ、級友たちよありがとう。


 そして結婚ゆっくり、子どももゆっくりだったので今、娘が高校1年生です。
「学校どうや?」と聞くと答えはもちろん今風に「べーつーにー」です。・・・

昭和48年卒業 第16期生 8組 古賀滋

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