高校闘争の時代 2

若かったあの頃、何も怖くなかった

古賀 滋さんの体験談の続きです


ビックリの連続・川高生活

入学していきなり、バリケードを見て腰を抜かしました。

その次には万博から帰ってきたら級友のGくん
(とてもかっこいい、水泳部のナイスガイ)が
ヘルメットをかぶって校門の近くに仲間と座り込んでいるのを
みて何か良心の呵責を感じました。

そういえばいつも出入りして戦略戦術を謀議していた十三のお風呂屋さんの
息子=GHさんも水泳部、同学年のIくんは柔道部。
意外と体育会にも仲間がたくさんいたのです。

私の年代では段々おさまっていたのですが
それでも一番大荒れに荒れた時代を記録した映画「終わり無き135日
の上映会を視聴覚室で催したら100人以上が来て満員御礼。

今話題の沖縄問題で集会をしたら一つの教室に入りきれず
隣の教室を開けて(勝手にあけるな)  
二教室開催!
第二会場の司会に急遽指名され
何も知らない私は右往左往、しどろもどろ。

ある日、生徒集会で我々にマイクを渡さない生徒会長Sや
その子分Kを追及したら乱闘になり
当時おつきあいしていたKちゃんから
「Sさんをいじめんといて」と怒られ、
その後、お付き合いがなくなってしまいました。(T T)

30年ぶりのハンドマイク

そして私が川高のジュリーと勝手に名付けていたIYさんは
年が二歳上なのに同学年(つまり悪行がたたって2年も留年)。
マイクを持った演説が感動的にうまくて
私はテープに録音して演説の手本にしました。
「市民社会の腐敗と堕落に苦悩する全国の高校生諸君!」

それが30年後、阪神大震災被災者支援ベントを母校ですると聞いて出かけたら、
校舎に響くその懐かしい声。
ハンドマイクを持って現れたので二度ビックリ!
十八条のグランドにあった復興住宅をお世話するボランティアに
ずっとたずさわっておられます。
その後は商店街の青年部長や
淀川区の文化運動のリーダーに。 
時代も変われば・・・ですね

私たちを鎮圧するために機動隊は新大阪駅の交番あたりでいつも待機。
今や、政治に足を踏み入れた私が新幹線で大阪に着かれる党首をお迎えに行くと
その交番に待機するSPさんたちと警備の打ち合わせをしてるのですから、
時代も変われば・・・ですね

塀の中の懲りない面々

 校舎の北側の塀を乗り越えて三国まで走って逃げたことがありました。
みんなで帰ろうとすると、正門で私服刑事たちが「話をしよう」としつこいのです。
そこで逃げたら追いかけられ窮余の一策がこれ!

今、塀を見上げての感想は
「よくこんな高いところに乗って、飛び降りて
一気に三国駅まで走れたなあ」
若かったあの頃 何も怖くなかった
♪ただあなたの 優しさが 怖かった♪
神田川の一節が身にしみます。    

その後、月日は流れてそのころの同窓生とは結構いろいろなおつきあい
をさせていただいています。

それぞれに色々な分野で活躍されています。
保険会社社長、まじめなサラリーマン、重機会社の切り盛り部長
清掃会社支社長として精神障がい者の就労支援をしている人、
郵便局勤め、ホームヘルプ主任、薬局長、医薬品会社社長等々

大金持ちはいませんがそれぞれ忙しく活躍されていて、
その消息を聞くたびに、元気が出ます。

昭和48年卒業 第16期生 8組 古賀滋

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