「断られたら、そこからスタート」だった証券マン時代 | |
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−大学卒業後は明光証券に入社されました。 |
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転職のきっかけは名刺30枚 |
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−55歳で、今までの証券業界とまったく違う広告代理店「クレオ」に転職されました。転職のきっかけは? クレオのオーナーは、明光証券渋谷支店時代からの顧客でしてね。 最初は断られてばかりでした。 しかし、断られても断れても通い続けたんですね。 それが認められ、長いお付き合いが始まりました。 ある日、私の名刺を30枚見せられ、「お前は30回も来たんや」と言われました。 そして、「君が入社してくれたら会社が助かる」と何度も誘われました。 ずっと断っていたのですが・・・。 しかし、54歳で出向先から本社に帰ることになりましたが、それを転機に転職したんです。 華麗なる転身ですね。( 自画自賛 ) −ここでも出会いに恵まれたのですね。(松本) −潟Nレオは店舗を展開するための広告代理店のようですが? 消費者の視点に立ったマーケッティングにより、販売促進の企画デザインの提案と その販促ツールの製作を生業とした 主に スーパーマーケット・. コンビニ を顧客としています 。 最初は名古屋支店の支店長として働きました。 職種はちがうけど、中味は営業だったので、とまどいはなかったですね。 新店舗開設の仕事を長くやってきた経験が生きたと思います。 また、ここでは素人の視点が役立ったようです。 |
潟Nレオ |
赤字の工場を黒字に | |
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販促ツールの製作工場 ( プロモーションセンター) が10年強赤字続きで、本社ではその前途をどうするか模索中でした。 そこで、「私が行ってプロモーションセンターを立て直しましょうか」と、進言し、 静岡県磐田市のプロモーションセンターにセンター長として就任いたしました。 プロモーションセンターでは、社員は高卒中心で、後はパートで、チンタラ、チンタラ仕事をしていました。 給料は安いし、ボーナスも安い。 「君らはこれでいいんか? センターが無くなったら、君らは失業するんだぜ!」 「販促ツールの製作だけではなく、商売にして儲けようではないか。発想の転換をしょうではないか」 「儲けたらボーナス出るよ」 と話すと、「 やります!」とみんな作業方針の見直しから始まり、個の作業からチーム集団の作業に変わりました。 組織集団を作り上げるように啓蒙しましたね。 センターは田舎の田園風景の中にあり、のんびりしたところですが、「クレオの工場の仕入れは甘い」 との裏情報を知り、これでは『だめだ』と感じ、 今まで仕入れは業者任せで、訪問すらしなかった40社ほどの仕入れ先をくまなく訪問し、 仕入れ交渉の最中、仕入先はびっくりしたようです。 「今度来るセンター長はちがうで、関西人やな」と、対応が変わりました。 これまでかなり『まったりした管理 』をやっていたのですね。 こうした努力は現在では当たり前ですが、当時は真摯な気持ちでの『いい物づくり』に徹していたからです。 トップが動くことで部下たちも動くようになり、10年間赤字だった工場を黒字に変えることに成功しました。 当然 センターの評価もランクアップしベースアップもボーナスも増えましたよ。 方向が曲がっていても信念を持ってトップがやる、やってみせる、で、ついて来いという、そして全責任を取ることですね。 僕は、証券マン時代に培ったパワーと、何があっても大丈夫だという自信があったし、またそうできるポジションにいたので、 自分自身が責任をとることに躊躇はなかったです。 |
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