「断られたら、そこからスタート」だった証券マン時代

−大学卒業後は明光証券に入社されました。

現在のSMBCフレンド証券ですね。

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年間証券マンでした。

入社したすぐは船場などの問屋街を回りましたよ。

法人営業ではなく個人営業で、一軒一軒訪問するんです。


−飛び込みの戸別訪問ですか?

そう、当時は「株屋」と呼ばれてね、「株屋は来るな」と言われるんです。

先輩からは、断られたらそこからが営業の始まりやと言われて、

それを信じてたんで、断られても、断られても、何度も通い、熱意で取引を始めてもらいました。

この人と思ったら、夜討ち朝駆けでくらいつきました。。


−人を見る目が必要ですね。

人を見る目も必要ですが、相手からも見られるんですね。

なにせ相手は405060の先輩、

こっちは大学出たての新米です。

そうした方たちを相手にするんやから、自分の人格形成のよい経験になりましたね。

この世界は誘惑が多いところでね、「任せるわ」と言われたら、預り書を書かんでもお金を預らせてくれます。

それを勝手に操作して、自分の収入にしようと思えばできてしまう。

そういった誘惑に負けない自分を作ってきました。


一方、僕が入社した昭和39年から40年にかけては、「証券不況」といわれた時代でした。

証券界はどん底でした。

そこで辞めた人は何人もいましたけど、

僕は「証券業界は今が底だ、これからは上昇するだろう」と思い、辞めませんでした


−がんばれたのは?

元々人と話をするのが好きやったんですね。

また、ここでがんばったら勉強が出来るじゃないですか。

情報を集めて顧客を説得する、実績が上がる、「田中は勉強しているじゃないか」と実践が証明される。

今のようにネット情報がない時代なので、アナログで企業情報を集めていましたよ、大変でしたけどね。

仕手筋(プロの投機集団)の情報も集めました。

あとは経験とカン。


その後は新店舗の開設ばかりやっていたのですよ。

大阪では茨木、塚口、その後東京で渋谷、新橋、池袋、神楽坂。

「新設店開店のベテラン」と言われるようになりました。

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歳の時に、竃セ光投資顧問会社に社長として出向しました。


  転職のきっかけは名刺30枚


55歳で、今までの証券業界とまったく違う広告代理店「クレオ」に転職されました。転職のきっかけは?


クレオのオーナーは、明光証券渋谷支店時代からの顧客でしてね。

最初は断られてばかりでした。

しかし、断られても断れても通い続けたんですね。

それが認められ、長いお付き合いが始まりました。


ある日、私の名刺を30見せられ、「お前は30回も来たんや」と言われました。

そして、「君が入社してくれたら会社が助かる」と何度も誘われました。

ずっと断っていたのですが・・・。

しかし、54歳で出向先から本社に帰ることになりましたが、それを転機に転職したんです。

華麗なる転身ですね。(  自画自賛 )


−ここでも出会いに恵まれたのですね。(松本)

−潟Nレオは店舗を展開するための広告代理店のようですが?

消費者の視点に立ったマーケッティングにより、販売促進の企画デザインの提案と

その販促ツールの製作を生業とした
広告代理店業で、

主に スーパーマーケット・. コンビニ を顧客としています


最初は名古屋支店の支店長として働きました。

職種はちがうけど、中味は営業だったので、とまどいはなかったですね。

新店舗開設の仕事を長くやってきた経験が生きたと思います。

また、ここでは素人の視点が役立ったようです。

お客さま目線で新しい発想での提案をすると、「面白い」と受け入れられました。


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年は名古屋に居ようと思い「帰りたくない」と言ったんですけど、2年で本社の営業統括部長にとの要請で、

全店統括をやってくれと言われて東京に帰りました。


平成12年に購買管理部長になり、全社の仕入れの責任者になり、

ここで関西人の「いかに安く仕入れるか」という本領を発揮できました。

従来の仕入れ方針を見直し、仕入先と交渉する事、新規の仕入れ先の開拓、この部署で潟Nレオの


収益構造のシステムを把握できました。今後の私の業務展開の基礎となっています。


 

潟Nレオ
  赤字の工場を黒字に

 
販促ツールの製作工場 ( プロモーションセンター) 10年強赤字続きで、本社ではその前途をどうするか模索中でした。

そこで、「私が行ってプロモーションセンターを立て直しましょうか」と、進言し、

静岡県磐田市のプロモーションセンターにセンター長として就任いたしました。


プロモーションセンターでは、社員は高卒中心で、後はパートで、チンタラ、チンタラ仕事をしていました。

給料は安いし、ボーナスも安い。

「君らはこれでいいんか? センターが無くなったら、君らは失業するんだぜ!」

「販促ツールの製作だけではなく、商売にして儲けようではないか。発想の転換をしょうではないか


儲けたらボーナス出るよ」

と話すと、「 やります!」とみんな作業方針の見直しから始まり、個の作業からチーム集団の作業に変わりました。 

組織集団を作り上げるように啓蒙しましたね。


センターは田舎の田園風景の中にあり、のんびりしたところですが、「クレオの工場の仕入れは甘い」


との裏情報を知り、これでは『だめだ』と感じ、

今まで仕入れは業者任せで、訪問すらしなかった40社ほどの仕入れ先をくまなく訪問し、

仕入れ交渉の最中、仕入先はびっくりしたようです。

「今度来るセンター長はちがうで、関西人やな」と、対応が変わりました。

これまでかなり『まったりした管理 』をやっていたのですね。


こうした努力は現在では当たり前ですが、当時は真摯な気持ちでの『いい物づくり』に徹していたからです。

トップが動くことで部下たちも動くようになり、10年間赤字だった工場を黒字に変えることに成功しました。

当然 センターの評価もランクアップしベースアップもボーナスも増えましたよ。


−リーダーシップとは何だと思われますか?

方向が曲がっていても信念を持ってトップがやる、やってみせる、で、ついて来いという、そして全責任を取ることですね。

僕は、証券マン時代に培ったパワーと、何があっても大丈夫だという自信があったし、またそうできるポジションにいたので、

自分自身が責任をとることに躊躇はなかったです。


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