練習は毎日です

 

-社会人になって音楽活動はどうされたのですか?


大阪でやっていたライブは忙しくなって休止していましてね。
しかしライブ活動はやれなかったけど、一人で練習はしていたのですよ。

43、,4歳の頃、証券会社同士の音楽会が東京の郵便貯金ホールで開催されたんです。

僕はカントリーを演奏しました。

そこで知り合ったプロダクションの方に「銀座のライブハウスに出演してくれませんか」と頼まれたんですね。

カントリーのライブハウスとしては老舗の「ロッキートップ」でした。
それが本格的にライブ活動を再開するきっかけとなったんです。

その時、ヨーデルの大御所、大野義夫さんの前座を務めたのですよ。

平成5年からは歌舞伎町の「リバティ・ベル」というライブハウスで週1回演奏を始めました。

初期のドンキーカルテットのメンバーで、カントリーのバイオリストの飯塚文夫さんがオーナーの店でした。

−田中さんは、カントリー界では「ゲイリー田中」の名前で有名ですが、名前の由来は?

僕は「しげる」なので、「しげる」→「げる」→「げーる」→「ゲイリー」となったんです。

それでイギリス系の米人の友人に「ゲイリーってどうや?」と聴いたら、
「ゲイリー・クーパーっているやろう?イギリスではゲーリーって非常に良い名前なのでいいんじゃない」

と言われ、決めました。


−現在はライブ活動を中心に生活をされているのですか?

中心ですね。
毎日練習していますよ。

8月5日に静岡県の掛川で「大震災」のチャリティライブがあるんですが、
それにも参加します。
田中さんのオーラが欲しいと言われまして。

8月に大阪でもライブがあります。

お呼びがあるときには参加しないと、呼ばれなくなるので、その機会を大切にしています。

 


今年6月8日に赤坂見附の「Live House STAGE-1」で
開催されたライブ。演奏は夜8時から11時。





「エレキギター・ドラム等を伴奏に、テンガロンハットに
赤いシャツ、口ひげをはやし、薄い茶色のメガネで、
20歳から50年間歌い続けてこられただけあり、
見事なものでした」

とは、当日参加したオーディエンス(同級生)の声です。
 

取材を終えて見えてきたもの


 
 

南欧風のリゾートホテルのような外観


手入れの行き届いた広い庭園
田中さんは平成22年4月に潟Nレオを退職されました。

その年の10月、体調を崩された奥さまのために岐阜県大垣のケア付きマンション「レジデンス・オリーブ壱番館」に入居されました。

私たちは興味深くマンションを案内していただきました。

 

高級感溢れる1階ロビーで、松本恵美子さんと



71歳になる田中先輩の「あの情熱」は何処から来るのか、取材を終えて、少しだけ見えてきたものがありました。

それは「自分自身に対して妥協を許さない姿勢」でしょうか。

いみじくも、同行の松本さんが「先輩は古武士のようですね」と表現されていました。


そして、先輩自身の「人生ずっと通過点」という言葉そのままに、「けっして歩みを止めない向上心」ではないでしょうか。

この2つの特質は、厳しい仕事で鍛えられ、音楽で培われた先輩そのものなのでしょうね。

私が圧倒された正体は田中先輩が生きてこられた道そのもの」だったのだと一人で合点した私でした。

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