高校は「真の友人」をつくる場でした



−それでは時計を逆に回して・・・、高校時代のことお聴きします。
田中さんは3期生、東淀川高校に入られたときはようやく学年が揃ったところですね?
それまでは校舎も建設中で間借りしていたとか。


東淀川高校の1、2期生は、新北野中学の校舎を借りて一生懸命勉強してましたね。
僕は新北野中学の3年やったけど、まだ他人事でね。

そしたら、3年生の夏に担任が「東淀川を府立で2番目の高校にしたいから、受験しないか?」と勧めるんです。
友人たちも行くというので、北野高校で苦労するよりもと、東淀川に進学しました。

僕たちが入学する時には新校舎も完成し、新しい校舎に1年から3年まで入ることができたんですよ。
先生たちも優秀な方たちが集まっていましてね、熱血漢の先生も多かったですよ。






今も大切に持っておられる
東淀川高校の身分証明書
学校長には初代小松忠雄先生の名前が。












修学旅行の時間表
 







高校時代の写真集
(上の青い文字をクリックしてください)
 
校舎は新設されたとはいえ、講堂も体育館もなく
3期生の入学式は
北中島小学校講堂で挙行
−草創期の東淀川高校はとても自由闊達な学校だったと聴いているのですが。

楽しかったですよ。
2年生の修学旅行も生徒の希望で、信州、山陽、山陰の3つのコースから自由に選べましたね。
クラスごとではなく、個人で選べたんです。

僕は、山陰(倉敷・鳥取・天橋立)に行きました。
 
 −印象に残っている先生は?

数学の森田敏夫先生、国語の竹内正次先生、そして英語の中村登士子先生ですね。
特に中村先生の発音は「LとR」がはっきり区別されていて、さすが高校の英語は中学と違うとショックを受けましたね。
その影響で、クラブはECCに入って、ECCの部長にもなりました。

−高校時代の思い出は?

3年間軟式テニスクラブにも入っててね、
運動場は雨が降ったらぐちゃぐちゃなるんでローラーをかけるんやけど、ローラーはものすごく重かったです。

それとラグビー部にも所属してましたね。
しかし、ボールをぶっつけられてメガネが吹っ飛んで、それで辞めましたけどね。

生徒会の書記もやってたんですよ。
毎週1回、「いかに学校生活を過ごすか」話し合うのです。
山下食堂に生徒一同の要望をまとめて、新しいメニューをお願いしたりもしました。

高校時代は勉強した記憶がないんです。
勉強は3年になって大学へ進学するとなって、初めてまじめに取り組みましたね。
高校時代は、ラグビー、テニス、ECCなどのクラブ活動に夢中でした。

今から考えると、高校は「真の友人」をつくる場やったんですね。
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