フォークソングに明け暮れる学生時代


 

  2階ホール

 観客用のいす。
 打ち上げの時は、このいすがテーブルになる。
 これも津島さんの手作り。




 ライブを観るお客さんたち。
 ホールは60〜80名入れる。



 音楽ライブ・お芝居・映画祭・落語会などが開催されている。
 貸しホールとして利用する事もできる。



−高校時代の津島さんは?


器械体操部でした。

フォーク全盛の時代で、2年の時は放課後残ってみんなでフォークを歌ってました。
2年5組はそういうのが活発なクラスでした。

もちろんギターなんて持ってません。
道に落ちてた板切れでギターを作りました。

昔から工作が大好きなんです。
友人2人の分も作りました。

ppm(ピーター・ポール&マリー)のコピーをしたりして、楽しかったです。

−大学では?

大阪府立大学の機械工学科でした。
フォークソングの同好会で反戦フォークを歌ってました。

関西フォークソング運動」って知ってます?
「歌を我々の手に取り戻そう!」という運動です。
それまでの歌は聴くだけのものでした。
それが、「歌は誰が歌っても、誰が作ってもOK」なんだと知って、衝撃を受けました。

大学は1年休学し、日本国中を回りました。
その後、インドに行ったりして・・・、
結局大学には6年いました。



−卒業後は?

就職するのが嫌で、しばらくはフリーターですね。

ライブや芝居のチラシを印刷屋に頼んだり、そこでバイトしたりして、
これならやれそうだと、24歳で自分で印刷屋を始めました。

場所は実家(現在の音太小屋のある)の一角を借りました。

ところが、仕事を始めてすぐに父が亡くなったのです。
それからは家族を養うために仕事一筋でした。

−それが再びライブを始められたのは?

40歳くらいから仕事に余裕が出てきたのですね。
忙しい最中に買っておいたマーチンギターを引っ張り出して弾いてました。

そんなある日、3年の時の同級生から
「風邪ひいて困ってる、代わりに出てくれ」
と頼まれ、都島のライブハウス「トム・ドーリー」に出演する事になったのです。

突然でしたが、友部正人の「一本道」高田渡の「生活の柄」を歌ったら、反応が良くて。

それで味を占めてその後10年くらいトム・ドーリーでセッションしたりしていました。




−そして50歳で転機を迎えた。その津島さんが「音太小屋」を創られたのは?

山にめったに行けないので、町の中でも自分の気持ちの良いこと、面白いことをやりたいな、と思い始めました。

それで、2005年3月に、印刷屋の2階を改造して、芝居やライブのやれるホールを造りました。

創るにあたっては、同じようなライブハウスを運営されてる方々に話を聴きに行きました。

その中で一番感銘を受けたのは、中崎町の方の話でした。
「あなたが、なぜ音太小屋を創りたいのか、そのストーリーが必要です」

 
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