堀口さんは、川高卒業後、金沢美術工芸大学(油絵科)に進学、
卒業制作(1965年)で描いた畳2枚分の作品「群像」を大学側が買い上げ、
国内外で注目を浴びた。
しかし、1968年十三で割烹料理屋を商う父が亡くなり、
現在の居酒屋「富五郎」として引き継ぐ。

この後7年間、絵は描けなかったそうだ。

―― 再び絵を描かれるようになりました。 
その後も居酒屋との両立を続けられたのはどうしてですか

 画家としてメシが食えるというのは、並大抵のことではないのです。
 美大を出た75%は教師をしています。
 教師をやりながら芸術家になるのは、無理があります。
 教師はどうしても他人の目を気にしてしまう。
 それでは自由な絵が描けません。
 有名画家の弟子になったら20年間はしんぼうせなあかんのです。
 公的な支援もほどんどない世界です。
 女房、子供を抱えて切羽詰まっていたら、自由に絵が描けません。

――7年後に絵を描くきっかけは何だったのですか?
 店を軌道に乗せるまでは大変でした。
 絵を描くどころではなかったのです。
 でも、7年経ってよほど絵に飢えていたのでしょうね。
 道のコンクリートのひび割れを見ても、これを切り取ったら絵になるな、
 何を見ても絵にしたいと思うようになったのです。
 それで再び絵筆を持ちました。
 一度身についたデッサン力は落ちません。
 また絵を描いてみたら、昔と変わらず描けました。

――その後数々の賞を受賞され、絵だけで食べていけるようになっても、
2足のワラジを続けておられるのは、なぜですか?

 店に出て、いろんなお客さんに接することで、刺激を受けるのです。
 その刺激が絵に生きてきます。
 店には落語家さんたちも沢山来られます。
 彼らとしゃべることが、エネルギーになる。
 しかも長く店をやっているので、50%を絵に、50%を店に、という配分がちょうど良いのです。
 

次ページへ

7年間は絵が描けなかった

掘口さんは 今年2月に、淀川区役所5Fに、畳2枚分くらいの100号サイズの油絵を2枚寄贈した。
抽象画だ。
最初は、祭りで聴いた太鼓の音を絵にしたくて、太鼓を基に具象画を描いた。
しかし、どうしても絵から音が聴こえてこない。
音を絵にする。
それにこだわっていくと、抽象画になった。

絵から音楽が聴こえる


――堀口さんのパステル画を最初に見たとき、私は音楽みたいだ
と思いました。躍動感にはリズムがあり、色はハーモニーを奏で、
そして豊かなメロディが流れている

 実は絵を描くときは、音楽を流してるのです。
 ラテンとか、シャンソンとか。
 良い絵には音楽があると思っています。