「この会社に対して自分は何が出来るか」を、いつも考えてきた
 


 会社を二人に譲られる

高山さんがバンドを辞めた頃、惠子さんも昼間の仕事に就くために、簿記の勉強を始めます。
簿記2級を取得できて、最初はバイトで広告屋さんの経理をします。
が、ここが倒産したので、新聞のたった2行の広告を見て、共同制作社に面接を受けに行きました。
共同制作社は主に校正、校閲の仕事をやっています。
出版社などから依頼された原稿の校正を、契約スタッフに割り当てる仕事です。

惠子さんは社員として入社、経理の仕事を始めます。
この事務所には何もなくて、オアシス(ワープロ)だけがありました。
土・日に出社して、このオアシスを勉強しました。
オアシスメイト(表計算)で、名簿作成や、支払いの基を作りました。
現在のエクセル作業と違って、コマンドを打たないといけないかなり高度な内容でした。
この自主的な仕事で社長に認められました。

その後、先輩だった女の人が辞めて、まだ小さな会社だったのでナンバー2になりました。
また、この会社の社長が高齢で、5年ほど病気のため出社されなくなっていました。
惠子さんが46歳の時、社長が「あんたらでやり」と、会社の経営権を、営業やっていた男の人と惠子さんの二人に譲ってくれました。

惠子:ただで。

しかし赤字が2年続いていて、内部留保の資産もないマイナスからの
スタートでした。
惠子さんは副社長になり、真剣に立て直しを図り、2年目に黒字に転化しました
副社長時代は10年続きました。

惠子:この時代はがむしゃらに働きました。

また引き受けた時は、1社で売上の7割を占めるような偏りがありましたが、だんだんに得意先を増やして行き、リスクの分散ができるようになりました。
「イミダス」「オズマガジン」「新しい住まいの設計」「ミセス」「韓国語ジャーナル」「日本医学会雑誌」など、辞書から雑誌、カタログ、外国語関係まで、大手の仕事が沢山です。

56才のとき、惠子さんは社長になりました。
今も経理と総務をやっています。

会社を引き受けた時は赤字状態で3億だった売上が、最高時には8億7千万になりました。
バブルがはじけて、企業は社員を減らし、アウトソーシングで仕事を外注に出し始めます。
その受け皿が共同制作社でした。
なので、世間が不況の時、この会社は逆に仕事が増えたのです。
しかし、今は外注に出していた仕事さえも社員にさせるようになって、仕事は減り、依頼内容は厳しくなりました。
無借金経営で今も黒字ですが、出版不況で3年位前から売上は減ってきています。

惠子;ただ儲かった時に貯めていた利益剰余金があるので。
それなかったら青ざめていたやろうね。

惠子;うちの社は社員がしっかりやってくれてるので、社長は結構楽なんですよ。

今後の方針としては、、医療系や外国語に強くなること、を考えてるんやけど。

惠子;歴史ある会社やから、これからもずっと続けていけるようにするのが
私の使命やと思うんです。
そのために若くて情熱のある社員に経営を引き継いで行きます。
うれしいことに、その人材には恵まれてるんです。


 

有限会社 共同制作社

〒101-0061 
東京都千代田区三崎町3-6-14
第二ハンタービル

TEL: 03-5216-7451 
FAX: 03-3237-0240


創業:
戦時中、当局により廃刊、
解散させられた改造社の
編集者たちが、
戦後、連携しあって編集・校閲等を
始めたのがスタート。
千代田区富士見にて、
編集・校正業務を中心として創業。

HP

http://www.kyodo-de.com/
 ※惠子さんは2012年9月1日より代表取締役社長を退任し、取締役会長に就任されました。
 
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