会名撰定について
 小松 忠雄

古来「名詮自性」といわれて、名は非常に大切なものとされています。
特に多数の示標となる同窓会名など、いざ選ぶとなるとなかなか容易なことではありません。

以前、同窓会の役員諸君が突然陋宅を訪れて、会名撰定の件を依頼された時は、
初代校長として拒否できぬ当然の義務でもあり、実のところ、これは大変なことになったと思いました。

普通なら経典などに準拠して出来るだけ立派な名前をというところですが、
期日の関係から、無駄な泥縄式は最初から念頭に置かぬことにしました。

結局、学生生活に引き続く同窓会なのだから、
最も因縁の深い校章にちなむのが却って適切でないかと考えたすえ、
多少平凡かも知れぬが、「江風」の2字を採ることにきめました。

校章に含めた意義に就いては、まだ私の在職中、これを要約して生徒手帳に載せて置きましたので、
諸君すでに御承知のことと存じます。

 

さて、会名の「江」は川の意で、昔から文人墨客たちが詩や文章で、
淀川のことを支那流にしゃれて「澱江」と書きならわしていたのから採りました。

「風」は普通にいう雨・風など自然現象のかぜであること勿論ですが、
なお此の字には風姿・風格・風教・風俗などの熟語でうかがわれる通り、
世の中のしきたりとか人間の態度や気がまえ、
もっと進んでその影響感化などの意味までが含まれています。

そこで「江風」とは、淀の川風ときわめてあっさりと意味付けることも出来、
また大淀の川風とむつかしく道義的な解釈を与えることも出来ます。

そこで、つまるところは次のようなことになります。
先ず、すがすがしい淀の川風に心ひかれ、夕涼みに暫らく浮世の熱閙を忘れようと、
ちょっと軽く浴衣がけの三々五々、期せずして堤に集まったうちとけた会員たちお互いの姿を第一目に浮べて下さい。

それから次に、然しながら一歩その胸臆に立ち入れば、
会員各自が、嘗ては母校在学の3年間、日々大淀川の偉大を象徴する校章から感得した、
宏量・清純・不屈・進展など永遠の発展性を示す色々な徳性を、卒業後もいよいよ啓培して行こう。

そして大淀の流れが無窮にそして末広がりに流域の沃野千里を潅漑してうまぬ如く、
いずれは本会をして、これからますます進展開花してゆく国家社会に、
いや現在の段階ではもう人類社会にという方が適切かも知れませんが、
それらに大きく貢献する人材を、今後増大する会員の中からどしどし輩出して行く、
それこそ素晴らしい同窓会に是非仕立てて行かねばならぬとの堅い覚悟をも示しています。

即ち果てしなき其の降運と会員各自の向上とを祝福した大へん目出度い名称であることも
見逃せないで頂きたいものです。

 

さて、最初に書いた「名称自性」とは仏教に関心を持っている人なら誰でもが聞き知っている世親菩薩が
、唯識論の中で使った名辞で、名は体を現わすといった意味です。

元来しっかりした自性すなわち本体があって
、其の内容に適った名称を自然に獲得した場合を申すのですから、
まず始めに名称を定め、
これをイデーに全会員がこれからそれに相応しい内容実体を創造して行こうとする会名設定は
およそ此の逆になるというべきでしょうか。

そこで名詮自性には守成の労苦があり、会名設定には創業の艱難が伴うわけです。
同窓会は永遠に続くものですから、差当り諸君は、この理想的な自性確立という創業を成る可く速やかに達成して、
守成に価する立派な継続事業を後輩達に遺さねばなりますまい。

皮肉屋の荘周は「名の実の賓なり」と喝破しました。
名前だけなら大したことではないということです。
諸君は今後毎年仲間入りしてくる後輩たちと協力励進して、
大淀川の示顕に恥じぬまでに本会の充実発展に努め、
ゆくゆくは荘子から、会名はただ見掛け倒しの看板だけ、と嘲笑されぬよう御努力願い度いものであります。

ただし、ここに戒心すべきことが一つあります。
同窓会はその性格からいって、ただ立身・成功・栄達など功利的な面のみが評価される場であってはならぬ
ということです。

永い将来ですから多数会員の中には様々な逆運に呻吟するものも数あることでしょう。

勿論堤撕切瑳の場でなくてはなりませんが、
一面又、得意のものも失意のものも暫らく俗世の汗を忘れて
お互いさまなつかしい昔話しや冗談口に温かく慰め合える桃源的な交遊の場であってほしいものです。

かくてこそ同窓会が、孔子河畔の歎に盛られた、
充足の実を遂げた水は行き、来る者は新しい活力をそこに受け継ぐ一体不可分の統一体(但し宗儒の説に因る)
となりましょう。

さて駄句一つ

  涼しさに袂をかわす堤かな    光 風