昭和39年から東淀川高校の食堂をきりもりする山下さんは、来年度で食堂をスタートしてから50年めをむかえられます。取材者の顔も覚えてくれているそうで、たいへん驚きました。

--覚えていただいてるなんてとても嬉しいです。凄いですね、あんなに人数いるのに。在学中に個人的にお話したことってほとんどなかったんですけど。

顔はだいたいみな覚えてるねん。名前はわからんけどな。クラブもだいたい覚えてるよ。

▲タウン誌「ザ・おおさか」に取材記事が掲載(2003年3月)

--そもそもお話をうかがいたいと思ったのもですね、やっぱり山下さんほど長く東淀川高校を見続けてきた方って他にいないと思うんです。生徒はもちろん3年で卒業しちゃうし、先生も入れ替わるしね。今日はそういう視点も絡めていろいろお話をきかせてください。
そもそもこの学校の食堂に関わる最初のきっかけというのはどういう経緯だったんですか。

いちばん最初ですか。もともとここの食堂は学校経営でやってはったんやけど、創立10年目に「学校経営はしんどいからそろそろやめたい」って話になってね。それで業者さんを探してるっていう話を人づてで聞いたのが最初。結婚した時にちょうどうちの主人が「なにか商売がしたい」って言ってたからね。
でも最初、私は反対やってん。こんな商売、女の人がエライ目するのわかってるやろ?けど主人に「自分が死んでも食べていけるように」って説得されて結局やることになった。

--それが昭和39年の12月ですね。ご主人はなにか関連のあるお仕事をされてたんでしょうか?

いや、全然。もともとはサラリーマン。今は千里高校で食堂やってます。前は北野とか桜塚とか、あと藤井寺高校も回って見てたんやけど、歳もいってきたから他は手を引いて今は千里高校だけ。

苦労が絶えなかった初期の経営

--娘さんがいらっしゃるんですよね。ここを始めた頃はまだ1歳だったそうですが。育児なんかはどうしてらしたんですか。すごく大変な時期ですよね。

うん。(奥を指して)そこにいてるよ。今京都から通ってくれてるねん。
育児はまぁ、おんぶしながらね。お昼はお父さんがきてくれて。車の中で寝かさなあかんからずっと学校の周りぐるぐるまわってた(笑)あとはお婆ちゃんが預かってくれることもあったね。2番目の子は食堂が忙しかったから6年空いた。その子は今北千里高校の食堂に行ってる。

--お話だけでも大変さが伝わってきます。

最初の頃はそら大変でしたよ。設備もぜんぜん整ってなくてね。小さい頃から家の仕事やってて料理するのは慣れてたけど、食堂やるとなると作る量もぜんぜん違うからね。小さい鍋しかなかったから人数分作るのにもすごい時間かかってた。

--当時の苦労で印象に残っていることなどはありますか?

まず炊飯器がなかったからね。湯せん式の二連かまどでごはん炊いてて。昔の「おくどさん」みたいなのな。釜の中に水を張って、沸騰したらお米入れる。
ガスも家庭用のガスコンロぐらいしかなくてね。自動じゃなかったから自分でマッチ使って火をつけてた。カレーなんかにしても、今みたいにルーなんてなかったからね。メリケン粉から炒って、純カレー入れて、そうやって作ってたんよ。
あとは雨が降ったら食堂が中まで水に浸かってしまうしな。浸かったらもう食堂は使われへんから、その日はパンだけ、とか。水に浸かったらザリガニがよう獲れたで(笑)

--メニューはどういうものだったんでしょう?

昔はお米よりもうどんがよく出てたね。あと、ラーメンをうどんの汁に入れたやつ。「黄そば」っていうてたけど、これは人気があった。それとカレーライスと、玉子丼ぐらいかな。なんせ設備がなんにもなかったから。

--じゃあ、いちばん大変だったといえばやっぱりはじめの頃ということですかね。

そりゃあ紛争の頃がいちばん大変やったな。

--昭和44年の一年間ですね。50周年の記念誌にも詳しく書かれています。教室が占拠されたり機動隊が出動したりと、高校としてはまれに見る大きな紛争になりました。その頃も食堂は経営できたんですか。

だからその頃は先生のごはんだけ作っててん。ロックアウトもやったからね。学校全部トタンで囲って誰も入られへんようにして。

--ええっ、先生のごはんだけ1年間ですか!だけど紛争の間ずっと誰も来なかったわけじゃないですよね?

それはそうやけど、まず授業ができないやんか。邪魔したりボイコットしたりするから。たまに集会とかで来てもすぐ帰ったりな。ただ、テント張ってハンストしてるような子でも食堂には立て看板もしない、ビラも貼らない。こっちには一切迷惑はかけなかったよ。

--へぇ、そこは分別があったんですね。山下さんの人柄が理由でしょうか。

そりゃ絶対怒られるからやろ(笑)

昔と今、かわったこととかわらないこと

--それでは苦労話ばかりでもなんですので反対方向に振りますね(笑)いい意味で印象に残っているイベントなどがあれば教えてください。

校内合宿かな。その当時は毎年8/1から10日間は合宿って決まってた。それでみんなの顔おぼえたりしてたから印象に残ってるなぁ。生徒にお皿並べさせたり盛りつけさせたり、いろいろ怒りながら(笑)多い時は100人ぐらいおったよ。今はもう全然やってないけどな。このへんがお風呂屋がなくなったり、学校で泊まったらいかんことになったり、いろいろ事情がかわってきたから。昔にくらべると、だいぶんイベントもなくなってるな。水泳大会なんかも今はもうやってないもん。

--やっぱり、長い歴史の中で学校や生徒の変化って感じますか?

そりゃあだいぶ変わってるよ。昔は能力別のクラス編成で毎日テストやってたやん。今は4時で帰ってるけど、当時は補習もあったから食堂も遅くまで残って開けてた。よう先生が「はよ帰れ」ゆうて生徒を帰しに来てたわ。
あとは人数が減ったわな。最初の頃は一学年で550人ぐらいおったやろ。最近はいち学年280人で全部で800人ちょっとぐらい。ちょうど今二年生が修学旅行で出てるから、全部で昔の一学年ぐらいしかおれへん。年とともに楽になってる。

--減ったとはいっても、お昼のいっときに集中して来るから大変さにはかわりなさそうですけどね。高校生ぐらいの時分はいくらでも食べますから。男子で部活やってる子なんかだと、ご飯ものと麺類とアイスで昼ご飯一回ぐらいでしょう?

いやぁ、今の子はそんなに食べヘんな。全体の人数もそうやけど部活やってる子も昔に比べるとだいぶ減った。だから売り上げも昔よりはかなり落ちてるよ。今なんかもう赤字スレスレ。

--こうして壁に貼ってあるお土産のペナントや色紙を見るととても歴史を感じます。全部当時の生徒から贈られたものですもんね。卒業してからもみんな何かあるたびにゴハンを食べにきたり、おみやげ持ってきたり。

それはよく来てくれるな。北海道に行った子がサンマ送ってきてくれたり、東京行って歌手になった子が手鏡くれたり。「お世話になったから」って、別に何も世話なんてしてないねんけど(笑)よその学校に転出した先生もよく卒業生つれて食べにくるで。同窓会やったからとかゆうてな。

--卒業生の懇親会でも、参加の理由で「山下食堂のごはんが食べたかったから」って答える人が凄く多いんです。世代が離れていても共通の思い出になってるんですよね。スゴイことですよ。

来年で食堂はじめてちょうど50年。まぁ50年までがんばって、そこでやめようかなって思ってるけどな(笑)

--えぇっ、やめちゃうんですか?

いちおうそういう気持ちでってことです。体が続く限りはいてるつもりで思ってるけど、いつまでも自分が第一線ではでけへんからね。そのあとここは息子夫婦に任せて。

--無責任な言い方かもしれませんが、我々としてはやっぱり「なるべく長く」と思ってしまいます。お体に気をつけてこれからも生徒達においしいゴハンを作ってあげてください。本日はどうもありがとうございました。

こちらのとりとめのない質問にチャキチャキと答えてくれた山下さん。テラスや空調がついて食堂が新しくなっても、バイタリティ抜群の「ボス」は、まったく昔のままの印象を受けました。
つい先日もある生徒から「おばちゃん、ダシ売って」という注文を受けたそうです。その生徒いわく、「あんまりおいしいからポットに入れて持って帰りたい」とのこと。昔も今も、やっぱり食堂の味は川高生にこよなく愛されてるんですね。